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 法 談 の 会   

今年の10回目は12月 7日(土)


 冬の冷たい雨の中を門徒が三々五々本堂に集合。
 住職・副住職・坊守所定の座に着き、今年10回目の法談の会を開催。

 真宗宗歌、三帰依文、正信偈、お念仏・六首引きを勤行さらに正信偈の読み下し文を全員で朗読。


 住職「今年最後の法談の会になりました。今回から新たにお二人の方にご参加頂きます。こちらの女性が目黒在住の○○さん、こちらの男性が川崎在住の○○さんです。お二人とも先月、帰敬式を受式なさった方々です。不慣れなこともありますが皆さんどうぞよろしくお願いします。またお二方はお経の部分でついていけない部分もありますが最初はどなたでもそうですし、お稽古ですから、つかえる、間違えるは気になさらず大きな声でお願いします。今月は第6章で如来より賜りたる信心、専修念仏のともがらについていただいてまいりましょう」と黒板に35歳、42歳、63歳と大書。
 親鸞聖人は35歳で流罪になり、42歳で許されましたが京都に帰らず茨城で布教活動をなさり、そして63歳で京都に戻られています。この茨城の20年間に地域ごとの門徒集団ができました。集団が幾つか出来れば真実は一つでも法の伝え方、伝わり方に差が出るのはやむを得ないことです。
 一方で密教をはじめ他の宗旨では師弟関係すなわち上下の関係には大変な厳しさがあります。ある意味で教える人と教えられる人に上下の区別があって当然でしたし、人格崇拝もあり得たと思われます。親鸞聖人はこのことを踏まえて、自分の努力や能力ではなく凡夫が救われていく専修念仏のともがらは、如来より賜りたる信心であり、すべての人が平等で、教える、教えられる、師匠、弟子の関係ではなく御同朋・御同行だとおっしゃっておいでです。このことは宗教団体だけの問題ではなく今日でも人の集まりの中でおこってくる問題です。そういう中で上下関係に縛られることなくお互いが自由に発言できる世界がどこで開かれるかを第6章は問いかけています。今日はここまでにして、皆さんのご意見を伺いましょう、で椅子を並べ替えて坊守に配って頂いたお茶とお菓子を喫しながらの座談の開始。


 〇 ここで聞いたこと自宅で思い返せないことが多くて、レジュメのようなもの作って頂けませんでしょうか。
 〇 自らを問い直すこと、大切なことと思いますよ。
 〇 この座談も御同朋・御同行ですから忌憚のない意見を言い合える場にしたいですよね。
 〇 ご夫婦おそろいの方は分からないでしょうけど、主人が死んだらね、
   いやなこと全部忘れて、よかったことしか思い出せないのよね。

 〇 ありがとうの言葉をいつ口にするかが問題ですね。
 〇 日本人はありがとうを口にするのも、態度で表すのも下手ですね。

 住職「そろそろお時間ですね。26日には今年最後のおみがきがあります。皆さんのご参加を待っています」で、全員が恩徳讃を斉唱して解散。                       (世話人 高橋正光 記)


次回は 2020年 2月 1日(土) 午後 1時30分からです。


今年の9回目は11月 2日(土)

亡き人との係わり


 冬の到来を思わせる弱い日差しの中を門徒が本堂に集合。

 定刻、住職・副住職・坊守所定の座に着き、今年9回目の法談の会を開催。
 真宗宗歌、三帰依文、正信偈、三淘念仏・六首引き、回向を勤行さらに次週の報恩講でお勤めするご和讃6首をお稽古、いつもの通り正信偈の読み下し文を全員で朗読。

 続けて歎異抄第5章を全員で朗読して、住職は「先週の旅行、いろいろありましたが、概ね予定通りで、無事に帰ってきました。先々月は第4章で今生きている人とのつながり、係わりについて聖人のお言葉をいただいてまいりましたが、今月は第5章で、今はなき人との係わりについてどのようにいただいていくのかを聞法してまいりましょう」と黒板に供養・慰霊・鎮魂・諸仏と大きく書いてお話が始まる。
 人が命つきるとと、霊だとか、魂だとか、追善供養なんてお話が出てきますね。つまり供養の仕方で幸せが来ることも、災いが来ることもあるというところで供養が問われる。吉凶禍福に縛られてしまう。亡き人への供養のあり方が自分の力ややり方で左右されるとされています。そのようなことで父母の孝養(追善供養)のために念仏はしないというのです。阿弥陀仏の本願によって建立されている浄土に還っていった亡き人が何を願っているのかを法事(仏法のこと)を通していただいていく。亡き人を阿弥陀仏の本願をこの身にいただかしていただく諸仏としていく。私達一人一人が亡き人を諸仏としていくのです。
 この章では自力の考えを捨てて、渡(ど)す、すなわちともに迷いの人生を捨てて浄土へ導き、導かれることが大切と書かれています。

 今日はここまでにして、皆さんのご意見を伺いましょう、で椅子を並べ替えて坊守に配って頂いたお茶とお菓子を喫しながらの座談の開始。

  〇 三回忌だとか七回忌だとかのご法事は何のためにあるのでしょうか。
   故人を偲んで、なんて話よく聞きますよね。

  〇 法事に集う人、すなわち生きている人のため、という話を聞きますよ。
  〇 亡くなった人はその集いのご縁を結んでくださった、ということかしら。
  〇 亡き人と共生、なんてどんなことなのかしら。
  〇 朝のお勤めの時に、こうして朝お勤めができる自分がいることが喜びで、感謝しなきゃいけないと思うの。
  〇 幸せを感じて感謝するということは、自分の立つ位置がどこかということで
   ずいぶん違ってくるんじゃないかしら。

  〇 お勤めも、合掌念仏も目的のためにすることではありませんね。感謝の気持ちが大切と思います。

 住職「そろそろお時間ですね。今月はこの後6日におみがきがありまして、9日がお逮夜法要、10日がお日中法要です。今年は2名の方が帰敬式をお受けになります。皆さんのご参詣を待っています」で、全員の恩徳讃で解散。

                                     (世話人 高橋正光 記)


今年の8回目は10月 5日(土)

「ありがたい」を口にするとき


 この暑さいつまで続くんでしょうかね、と汗を拭きながら、門徒が本堂に。定刻、住職、副住職、坊守所定の座に着き、今年8回目の法談の会を開催。
 真宗宗歌、三帰依文、正信偈、お念仏・六首引き、回向勤行の後、住職が御文第5帖第9通を読誦して大意を解説、続けて「先月最後の座談の時に、赤坂さんが仰った『ありがたい』を口にするときにはどんな場合なのか、どんなことを考えてなのかご意見を伺いたいと思います」で椅子を並べ替えて坊守に配って頂いたお茶とお菓子を喫しながらの座談の開始。

  〇 「ありがたい」は一般論的には、感謝のとき、諦めのとき、お願いのとき出てくるといわれていますね。
  〇 家内が亡くなって13年、炊事も洗濯も掃除も一人で暮らしています、
    最近はよく友人知人の訃報が届くんですね、そんな毎日朝夕お内仏に向かってお勤めをするとき
    出てくる言葉は「ありがたい」なんですよ。

  〇 お勤めの最初に皆さんで唱和する三帰依文に「人身受け難し、今すでに受く」
    ありがたいことという言葉が隠されていますよね。

  〇 よく臨終のその最後の時の言葉として「ありがとう」なのか「南無阿弥陀仏」なのか、話題になりますよね。
  〇 私の姉は妙好人と言われるほど信心深い人間でしたが、息を引き取る間際の言葉は「ありがとう」でしたね。
   でもその「ありがとう」がお念仏の教えを聞法してきた歩みからでた言葉だと思います。

  〇 人間、今自分が死ぬ、なんてこと理解できるのかなー、自分は死ぬと思っていないから
   「見舞いに来てくれて、優しい言葉をかけてくれてありがとう」といったんじゃないのかなー。

  〇 今読み終えた本に、仏像に向かって手を合わせるのは「お願い」じゃなくて「感謝」のためだと書いてありますよ。
  〇 感謝の気持ち表すの下手ですよね、特に日本の男性は。
  〇 何故「ありがたい」とお念仏が結びつくかというと、今自分がここにいることを
   阿弥陀如来に感謝する気持ちの表れではないでしょうか。

  〇 この歳になって、日々感謝しながら生きなければいけないとわかっていても、
    毎日の生活ではついつい「我」が出てしまうんですよね。

  〇 一人暮らしをしていますと、この法談の会のような、人と話の出来る場のあることが
   大変うれしいんですね、ありがたいことなんです。


 住職「お時間ですね、お念仏の教え通しての報恩感謝の気持ちが大切だということ改めてご認識頂いたことと存じます、今月末に二泊三日で北陸の旅行があります、副住職の実家、金沢別院、高山別院にもお詣りします」で恩徳讃を斉唱して散会。
                                     (世話人 高橋正光 記)


今年の7回目は 9月 7日(土)

聖道の慈悲、浄土の慈悲


 9月というのに30度を超える暑さの中、門徒が本堂に集合、定刻、住職、副住職、坊守所定の座に着き、今年7回目の法談の会を開催。
 真宗宗歌、三帰依文、正信偈、お念仏・六首引き、回向を勤行。
 いつもの通り正信偈の読み下し文を全員で朗読。

 住職「先月は例年の通りお休みでしたが8月は如何でしたか、この暑さの中良くお集まり頂きました、今日は歎異抄第4章についていただいてまいりましょう」と白板に聖道の慈悲、浄土の慈悲と大書してお話が始まる。
 自分の周りを見渡しても悩み苦しむ人、悲しむ人がたくさんいるでしょう。その人たちに向かって自ら手を挙げて、出来ることはないか、助けてあげることはできないかと働きかけることは本当に大切なことと思います。親切心や優しい心で働きかけることは素晴らしいと思います。しかし、人間のすることですから限度があります。すべてが可能ではないということを認識すべきです、このこと聖人は聖道の慈悲と呼んでいます。いかなる手だてをしても状況を変えることは難しいというより不可能に近いと思います。私共のなんとか力になりたい、支えになってあげることが出来たらということは本当に大切な心であり、自然の気持ちだと思いますが、最後はその人自身がその命の事実をいただいていくことを祈ることしか私共には出来ません。ではどうする、が浄土の慈悲です。悲とは抜苦のことなんです、抜苦とは、安心して穏やかにさせることです。状況がチャラにすることは出来ませんが、その心に寄り添って、仏の力に任せることで気持ちが安らぎ和む、持続性、永続性のある常住不変の浄土の慈悲を深く考えさせられます。

 住職「今日はここまでにして、皆さんのご意見を伺いましょう」で椅子を並べ替えて坊守に配って頂いたお茶とお菓子を喫しながらの座談の開始。

 〇 本文に「変わり目あり」とありますがどういうことなんでしょうね。
 〇 だから仕方がない、諦める、の私共の良し悪しは考える必要があるでしょうね。
 〇 自分で、延命措置はいらないっていってたわよ、といってもその場に居合わせた医師が
   納得しないことあるのよね。

 〇 この歳になるともう思い残すことは何もないわ、でもね、心配なのは子供たちが
   お寺のこと知らな過ぎるのよね。

 〇 お寺とのお付き合いの仕方、特にお金(お布施)のことになると全くわからないんじゃないかしら。
 〇 この歳になると友人の訃報が多いんですね、毎朝のお勤めで思ことはただ「ありがたい」ですね。

 住職「そろそろお時間ですね。今のお話大切なことですから、来月は予定を変更して座談にして、『ありがとう』『ありがたい』について皆さんのご意見を伺いたいと思います、17日(火)はおみがきがあります、多くの皆さんのお越しをお待ちしています」で恩徳讃を斉唱して散会。              (世話人 高橋正光 記)


今年の6回目は 7月 6日(土)

御遠忌テーマを見直して


 梅雨の真っただ中、傘立てに傘を入れて、門徒が本堂に集合、定刻、住職、副住職、坊守所定の座に着き、今年6回目の法談の会を開催。
 真宗宗歌、三帰依文、正信偈、お念仏・六首引き、回向を勤行。

 住職「今日は座談の日ですからまず御文を拝読します」で、副住職がテキストを配付して第五帖第六通、すなわち信心獲得の御文を丁寧に朗読、「ここに書かれているように罪業は消滅するものではありませんが、如来の本願を信じる人は正定聚住することができるのです」とし、「先月、聖人生誕850年・立教開宗800年慶讃テーマが発表されました、今月の同朋新聞を読んでください、今日は750回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」そして、それを受けての組のテーマ「いのちの声を聞く」についてこれまで聞法してきたことについてもう一度考え、皆さんのご意見を伺いたいと思いますが如何でしょうか」で椅子を並べ替えて坊守に配って頂いたお茶とお菓子を喫しながらの座談の開始。

  〇 「いのち」という言葉からは「健康で長生き」が思い浮かびます。
  〇 自分は健康だ、と思っていても年とともに歩く速度はずいぶん遅くなるし、
   走るってことは難しいと思い知らされます。

  〇 私の思いと賜ったいのちを考えさせられます。
  〇 一言でいのち、と言っても肉体的なものと精神的なものとありますよね。
  〇 そのいのちも、必ず自分の思い通りにはならないのですよね。
  〇 肉体的には体力のあるなしでしょうが、精神的なものでは「いのちの繋がり」を
   考えなければならないと思います。

  〇 真宗の教えでは、人は死んでも残った人が敬い、慕う諸仏として心の中に生き続けるんですね。
  〇 いのちというと人間以外でも、極端なことをいえば草でも木でも一生懸命生きて、
   そして成仏するって聞いたことありますよ。

  〇 今90歳を超える人が沢山いますが、皆さん自分のことは自分でできているのでしょうか、
   高齢になるということは介護を避けては通れませんね。

  〇 介護というと介護する立場での発想なり発言が多いように思われますが、
   介護される自分、なんて考えるだけでも恐ろしくなります。

  〇 最近の報道では、虐待だとか、いじめだとかいのちをいかにも軽くというか
   大切にしない事例が多いですね。


 住職「そろそろお時間ですね。来週の9日(火)はおみがきがあります、多くの皆さんのお越しをお待ちしています」で恩徳讃を斉唱して散会。                        (世話人 高橋正光 記)


今年の5回目は 6月 8日(土)

他力をたのむ(歎異抄第三章の悪人正機)


 関東地方梅雨入り宣言の翌日、湿度の高い中を門徒が本堂に集合、定刻、住職、副住職、坊守所定の座に着き、今年5回目の法談の会を開催。
 真宗宗歌、三帰依文、正信偈、お念仏・六首引き、回向を勤行。
 続いて全員で、正信偈読み下し文を朗読。
 住職「さあ今日は第三章、歎異抄を読んだこともない人もこの章は聞いたことのある悪人正機の章です」とテキストの第三章を丁寧に朗読し、黒板に「善・悪」と大書して説明開始。
 (要旨は次の通り)
   仏教はじめキリスト教もイスラム教も世界中の宗教が善と悪とを対比させてそれぞれの教えを説いている。
   しかもその基準は異なっていて、その是非を判断しがたい部分がある。
   この第三章には「他力をたのむこころ」「他力をたのみたてまつる」と他力という言葉が
   3回も使われていることをよく考えて欲しい。

   この章の善人とは、自分の力・努力で善い行いをしていると自負している人で
   他力をたのむ心の欠けた人と書かれている。

   悪人とは、自分を真実に背く罪深い人間であると念仏の教えによって自覚せしめられている人で、
   自らの力では真実報土に往生できるとは思っていない人のことである。

   人は誰でも生まれたときから、善をなせ、善であるべきと教えられ、
   多くの人はそのようになるべきと考えて暮らしている。

   しかし善人と言われる人であっても、如来の本願によって照らされて善因善果の考えや修行を捨て、
   念仏を申す身となれば必ずや真実報土に往生が遂げられる。

   だから善人であっても真実報土往生の途があるのだから、自分の努力や善根功徳で
   真実報土往生しようとしていない悪人は真実報土往生できる。


 住職「我々が今日口にする悪人とこの章でいう悪人はどうなんでしょうね、今日はここまでにしましょう」と机を並べ替え坊守に配って頂いたお茶とお菓子を喫しながらの座談の開始。
  〇 境内掲示板の「愚かなわたしです」と言っている人は善人なんでしょうか、悪人なんでしょうか。
  〇 元次官が息子を殺す悲劇がありましたが、あんなことになる前に何か手立てはなかったのでしょうか。
  〇 現代の日本人はお上にも他人にも甘えることが下手みたいですね。
  〇 どの世代、どの階層、どの地域にも話し合いの場がない、あっても少ないのが現実でしょう。

 住職「そろそろお時間ですね。来月のおみがきを9日(火)に変更してください、皆さんのお越しをお待ちしています」で恩徳讃を斉唱して散会。                       (世話人 高橋正光 記)


今年の4回目は 5月11日(土)

十余か国のさかいをこえて(歎異抄第二章)


 5月上旬というのに夏日を思わせる陽気の中を門徒が本堂に集合、定刻、住職、副住職、坊守所定の座に着き、今年4回目の法談の会を開催。
 真宗宗歌、三帰依文、正信偈、三淘念仏・六首引き、回向を勤行。
 住職「本日初めてご参加の方がおいでですのでご紹介します。お住まいはお寺のお近くです。今後もどうぞよろしくお願いします。お願いが二つあります、来月早々お寺の親族におめでたいことが重なりますので、法談の会は第2週の8日にして頂きます。
 もう一つは6月5日(水)に東京教区の同朋大会が文京シビックホールであります。入場券ご希望の方は後刻お渡ししますのでお申し出ください、それでは本日は歎異抄の第二章です」とテキストの一節ごとの朗読と説明が始まりました。
 (要旨は次の通り)


 ・その当時、茨城から京都への旅はまさに命がけであった。

 ・教えを問い、聞くために志してのことと思う。いのちをかけてきたお志しに真向かい、
  その志しをこそ問い続けて欲しい。

  ・しかし、念仏以外に往生の道があるとは思っていない。
  ・経典や注釈書を読みたいなら奈良の寺院や比叡山へ行ったらいいでしょう。
  ・凡夫のこの身がお念仏を申す身となって阿弥陀如来に救い摂って頂くよりほかになせる行がないので、
  法然上人に騙されて、お念仏を称えて地獄に落ちたとしても後悔しません。
  また全ての人が救われる道だからです。

  ・阿弥陀如来の本願がまちがいなければ、釈尊の説教、善導大師の解釈が正しいとする
  法然上人の仰る通りであり、如来より賜りたまう信心であるので、親鸞も同じようにしかいえない。

  ・念仏を信じるのも捨てるのも皆さんのお考え次第ですよ。

 住職「この章の前提として親鸞聖人が茨城を離れて時間がたつと、現世利益をうたう他の宗派からの圧力や実子善鸞さんの迷走などから門徒間に迷いと動揺が広がっていたことが考えられます。今日はここまでにしましょう」と机を並べ替え坊守に配って頂いたお茶とお菓子を喫しながらの座談の開始。

  〇親鸞聖人84歳、善鸞54歳、まさに分別盛りの二人が義絶なんて、何か他に理由があったんじゃないですか。
  〇本願寺教団をが形成されていったのは蓮如上人のときで、それまでは親鸞聖人の教えが
  人と人とつながっていたということでしょう。

  〇ご縁48号の廣瀬さん、戦争のない世界を強くお望みですよね。
  〇改元に伴う宗教行事が憲法に抵触することはあるんでしょうか。
  〇現行憲法は実態にそぐわない、改憲して実態に合わせるべきと思います。
  〇第9条だけでなく、広く憲法論議は必要と思います。

 住職「そろそろお時間ですね。来週の日曜日19日は護寺会総会と門徒大会です皆さんのお越しをお待ちしています」で恩徳讃を斉唱して散会。                       (世話人 高橋正光 記)

今年の3回目は 4月 6日(土)

五劫思惟の本願といふも(御文五帖目第八通)


 境内のソメイヨシノが満開、枝垂桜が三分咲きの暖かな日差しの中を門徒が本堂に集合、定刻、住職、副住職、坊守所定の座に着き、今年3回目の法談の会。真宗宗歌、三帰依文、正信偈、お念仏・六首引き、回向を勤行。

 住職「本日常連のご高齢の方がお一人体調不良でご欠席です、それから五月の門徒大会のバザーですが諸般の事情がありまして今回で最後とします、もう一つ寺から報告があります、副住職・准坊守に第3子(男子)が誕生しました、母子ともに経過は順調で一昨日退院しました」
「それでは本日は座談の日ですからまず御文を拝読します」と「五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも」から始まる御文第五帖八通を拝読、「この第五帖八通は御文の中でも特に阿弥陀如来の本願を分かりやすく解かれている、といわれて何かの折によく拝読される御文です。それではこれから座談を始めましょう」と机を並べ替えて坊守に配って頂いたお茶とお菓子を喫しながらの座談の開始。


  〇 歎異抄の原本は存在するのですか。
  〇 歎異抄は全部漢字で書かれていたのかしら、かな交じりだったのかしら。
  〇 蓮如上人の写本と言われているものが西本願寺にあるようです。
  〇 葬儀社が「家族葬」などという言葉を流行らせたり、テレビの影響があったりして、
    葬儀本来の姿がなくなっているのではないでしょうか。

  〇 所によっては町内会の掲示板に訃報を乗せなくなっているようです。
    現在の葬儀はホール・式場で、自宅での葬儀はなくなりましたよね。

  〇 家族葬は終わったのに、後から自宅にお悔やみに来られて、それが一人や二人でなく対応が大変だった、
    という話を聞きました。

  〇 家族の死をその知人に知らせるのということは大変なことですよね。
  〇 新元号の令和には、人に寄り添って、という意味もあるようですが、実際にそうなってくれるのでしょうか。
  〇 先ほどの御文拝読で、五障三従の女人 の所で少し澱まれましたよね。
  〇 葬儀のことはともかく、死ぬってことは大変なことよね。
  〇 救急車を呼んで、意に反して延命治療なんかされたらイヤよね。
  〇 医者の中には「死は敗北」なんて考えている人もいるようですよ。

 住職「お時間ですから今日はここまでにしましょう、今月27日(土)に北烏山の永願寺で五組の同朋会があります、そして5月の法談の会は第2土曜日の11日に行います」で恩徳讃を斉唱して散会。  (世話人 高橋正光 記)



今年の2回目は 3月 2日(土)

「歎異抄」第1章に「真宗の教え」のすべてが入っています。

  久しぶりの春らしい暖かい日でした。セーターを着て歩いてお寺に着くころには背中が汗ばんでいました。境内には赤と白の梅が咲き誇っていました。
 本堂  紅い梅の花  白い梅の花
 定刻になると住職のにこやかな挨拶がありました。3月は18日からお彼岸が始まります。それに先立って15日にはお磨きをします。中日の21日は永代経法要です。いつも皆さんと一緒にお勤めが出来ることは本当に大切な有り難い場をいただいていることと思っています。それでは正信偈を一緒にお勤めしましょう。

 お勤めが終わると、歎異抄のお話です。今日は歎異抄の2回目、第1章に入りました。この章だけで真宗の教えのすべてが入っています、と住職は話されました。ホワイトボードに板書しながらの住職のお話は、この短い文章の中に、いかに多くの真宗の教えが書かれているかを具体的に明かにしてくださいました。
 「誓願の不思議」とはなんでしょうか?「無量寿」とは、「無量光」とは?
阿弥陀様のはたらきがどんな時でも、迷っている私たちの、ありのままの姿を照らし出してくれるのです。
 「唱える」と「称える」の違い、「自力、他力」、「往生」「見敬」などの言葉を板書されて、詳しく真宗の教えを話されているうちに、たちまち時間は過ぎてしまいました。

 後半は座談会です。お茶とお菓子をいただいて、何でも話してくださいという住職の言葉に促されて、「信心とはどこまでいうのでしょうか?」とか、「最近の電車内のマナーのわるさ」、「年寄りを敬うのは何故か」、「困っている人に手を差し出す勇気」など賑やかに話題が展開しました。

 和気あいあいとした座談会も終わり、外へ出ると、まだまだ日は高く、暖かい光が境内に満ちていました。境内の掲示板には、永代経法要のお知らせがありました。外塀の掲示板を見ながら帰路につきました。(世話人 高田英夫 記)

 「歎異抄」の第1章  境内の掲示板  外壁の掲示板

今年の1回目は 2月 2日(土)

いま改めて、歎異抄に学ぶ

  


 境内の梅の蕾もまだ堅い寒さの中、門徒が本堂に集合、定刻、住職、副住職、坊守所定の座に着き、今年1回目の法談の会を開始。
 真宗宗歌、三帰依文、正信偈、お念仏・六首引き、回向を勤行して正信偈の読み下し文を全員で朗読。
 住職「今年は寒さがことのほか厳しく、風邪やインフルエンザが流行っていて、体調を崩される方も多いようです、くれぐれもご無理はなさらないでください。長くご一緒にいただいてきました正信偈も昨年12月の法談の会で、一応の区切りがつきましたのでお約束通り『歎異抄』を聞法していきたいと思います」と東本願寺出版発行の小冊子「歎異抄」を全員に配付、「今日は第1回ですか歎異抄の概要についてお話ししましょう」と開始。

 いま大きな書店に行くと、歎異抄に関する本が一冊もないということはないと思います。真宗の門徒さんでない方も、あるいは仏教にご縁のない方も歎異抄について読んだり本を出されている方がおいでのようです。
 これほど人口に膾炙している歎異抄も長く宗門の外に出ることはなく、明治時代になって西福寺の旅行でもお参りに行きました西方寺の清沢満之が、「広く門徒に公開し、学ぶべき」としてから多くの人が目にするようになりました。
 書いた人は親鸞聖人の弟子の「唯円房」といわれているのが通説です。この本を読んだ蓮如上人が教えの真髄について書かれた大切な本ではあるが誤解を招く恐れも多い、として宗門の中に閉じ込めてしまったようです。それを清沢満之が解き放ったということでしょうか。
 全体は序、18章、後序からなっていて、序から第10章までを師訓篇、第11章から後序までを歎異篇と呼んでいます。
 内容は、一般的にいわれているような親鸞聖人の教えとは異なるという唯円房の嘆きや教えについての正当性の主張だけではなく、先師すなわち七高僧をはじめとする多くの方々から親鸞聖人にまで伝えられた、単なる批判の言葉ではなく、そこにあまりにも宗祖親鸞聖人の歩まれた生涯と異なる在り方に深い悲しみ(悲歎)から、これを読まれた方々に宗祖が伝えて下さった念仏の教えを聞き直し、問い直していただいていって欲しいことが願われているのだと思います。
 内容は読めば言葉の意味は概ね理解できると思いますが、親鸞聖人が90年の生涯にわたって問い直し続けた、御同行御同朋と呼ばれた方々のために願い続けたその内容をしっかり学んで頂きたいと思います。

 この後、坊守に配って頂いた、お茶とお菓子を喫しながらの座談。

 住職「お時間ですから今日はここまでにしましょう、今月16日(土)に天現寺橋の佑浩寺で五組の同朋会がありますので是非ご参加ください」で、恩徳讃を斉唱して散会。              (世話人 高橋正光 記)

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